なぜどこで間違えたのか

出会いのためにこの道を歩いてきたが、いったい何処で何をどう間違えてしまったのだろうか?そもそも我々に出会いなんてものはホント存在したのだろうか?今になっては全て意味もない事だが、今までにやってきた行いが全て無駄になったと言う事実だけで十分な程に絶望的だと言う事が分かって頂けたならばソレに越したことはないだろう、なんなら今からニンテンドー64のパーフェクトダークを一緒にプレイしてもいいくらいだ、いま思えば友達とアレを行なっている時が一番面白かったのではないだろうか?今でこそリアルな画面になったものだが当時のあのローポリで殴りあうのがなかなか楽しかった訳だがもはや大人になってしまった今、あのような感動に出会う事はもうないのだろう。

人生に勝つのに何が必要なのか

人生に勝つためにはいったい何が必要なのか考えた事はあるだろうか?そんな事言ったって人の幸せはそれぞれで一概に言えるものではないじゃないかなんてアナタは思うかもしれないが、しかし言えるのだ、出会いだよ出会い。この世の幸せとは幸運との出会いによって満たされるものであると言っても間違いではないハズだ、なんだいなんだい偉そうなご高説を垂れたかと思えば結局どうしてそんな事かい、ガッカリしたねと言われても仕方がないが例えば金だ、多くなくてもいい、人よりもちょっぴりほんの少しだけ多ければそれだけで人よりは幸せになれる、そう思わないか?つまり人生における幸せとは些細な幸福との出会いの数で決まるのだ、さぁアナタは今日どれほどの幸福と出会ったかな?

ちょっとアレな宗教論

そんな訳で内容が明らかに新しい宗教的な話になってしまったが、例えば仮の話として本人が救われるのであればその宗教団体との出会いも決して無駄ではないのではないだろうか?あくまで極論ではあるものの、その宗教団体との出会いが、現在不幸であったその人の人生を救世せしめるものであったのならばその出会いもまんざら悪いものでもないのではないだろうか?しかしそんな機会にめぐり出会う事は稀であるし、都合よくそのような人間が宗教団体に出会って救われるという事も1000本中に0.5本あれば良いほうだろう、本人が救われた出会いであると考えていても実際に、周りも救われていなければやはり救いのない話でしかないではないか。